時計・宝飾・眼鏡の専門店 株式会社ヤマザキ
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トップヤマザキの歴史 〜山崎家 諏訪の起業家一族〜

山崎家
ヤマザキ誕生に至るまで(山崎久夫時代)

 株式会社ヤマザキの前身である「山崎屋時計店」は、明治年代に長野県諏訪郡上諏訪町(現在の諏訪市)の西榊町に開店したと記されています。大正時代に入ると、同市内の上町に移転しましたが、服部時計店に奉公していた山崎久夫(1905-1963)が関東大震災のため帰郷し、先代である父・常次郎と仕事を始めたのがこの頃です。

 久夫は高等小学校を卒業する際に、人生の夢は「時計王、服部金太郎」だと黒板に大書きしたというエピソードがあり、将来は大時計店を築くのだと心に決めていました。実際に山崎屋時計店の店主になってからは卓越した商才で店を発展させ、ついに昭和11年に当時諏訪地方で一番の商店街だった本町(現在の所在地:長野県諏訪市諏訪一丁目)に進出を果たします。
精工舎:NATION(ネイション)
 昭和12年の日華事変以降、戦争は長期化の様相を見せ始めます。久夫は戦時経済統制のため経営が危うくなっていた店の状況に悩み、日々思案していました。そんな折、奉公先であった服部時計店および腕時計・懐中時計製造をしていた第二精工舎を訪れていた久夫に、願ってもない話が舞い込みます。精工舎では危険分散のため、地方で販売しながら組み立てをする時計店を探していました。そこで「山崎屋時計店で時計の組み立てをしないか」との依頼があったのです。「とにかくやらせて頂きます」。戦争のため本業が不調だった久夫はその話を受け、昭和15年に店舗の二階を改造して作業場を作り、第二精工舎から部品供給を受け、わずかな従業員と近所の女性だけで腕時計「NATION(ネイション)」の組み立てを開始しました。
大和工業  当時、諏訪地域の工業といえばバルブ産業と、衰退を始めた製糸業が中心で、何とか新しい工場を誘致しようという気運が高まっていました。そんな中「この時計組み立て作業を拡大して諏訪の地域産業にまで育てる事ができないだろうか?」と久夫と友人達は考え、当時の諏訪市長、また第二精工舎の協力を得て、昭和17年5月に味噌蔵を改造した第二精工舎協力工場「有限会社 大和(だいわ)工業」を設立するに至ります。設立当初の仕事は時計部品「輪振り」の製造でした。
 久夫はこの翌年、取締役に就任していた大和工業での事業に専念するために山崎屋時計店の閉店を決意します。しかし心の中では家業である山崎屋時計店を続けて行きたいという思いもあり、いつかは店を再開したいと考えていました。
 昭和19年、戦局が激しくなると第二精工舎が戦災により諏訪・桐生・富山・仙台に部分疎開を開始します。諏訪への疎開は大和工業設立の経緯もあり、久夫が当時の市長とともに熱心に誘致した事で実現したのですが、終戦を迎えると第二精工舎は東京へ戻る方向で動き始めてしまいます。これでは諏訪の産業は再び衰退してしまうと考えた久夫は、まず実績をつくろうと、他よりも早く時計製造を開始します。

 そして昭和21年1月、ついに女性用5型腕時計が完成します。これが「諏訪で初めて作られた時計」でした。市場の要望もあり8月には男性用10型の製造に切り替えますが、戦時中の空襲で亀戸の第二精工舎から10型時計製造のための機械と道具が疎開していた事もあり、戦後に第二精工舎関連工場の中で10型を製造したのは諏訪が一番早かったといいます。また、久夫は戦後で食料事情が良くなかった中、疎開していた人達の食料確保、そして住宅確保に奔走します。さらに電力事情が悪い中、通産省へ直接掛け合い、当時法令上不可能と言われた専用線を引く事にも成功します。結局、第二精工舎が疎開した4工場のうち、桐生・富山・仙台は東京に引き揚げましたが、何がなんでも諏訪地域に時計産業を植え付けようとした山崎久夫の信念と努力により第二精工舎諏訪工場は諏訪に残り、大和工業との協力体制を継続していきます。
 さて、大和工場はそれから十数年後の昭和34年、第二精工舎諏訪工場と合併し、世界に先駆けたクオーツ時計の販売により一躍その名を世界に馳せる事になる「諏訪精工舎」(現セイコーエプソン)となり、久夫は代表取締役に就任します。そういう事から、山崎屋時計店二階の時計組み立て作業場が「諏訪精工舎」のルーツのそのまたルーツであり、そこでの時計組み立て開始が、諏訪地方での時計産業発展の“礎”となったといっても過言ではないと思います。

 なお「諏訪に時計産業を根付かせたい」という信念のもと、寝食を忘れるほどの献身的努力をした久夫の勤勉さは多くの人々に感銘を与え、後年、その偉業を偲んで諏訪精工舎に「誠実努力の碑」が建立されました。
誠実努力の碑

このあたりのエピソードについては2001年9月4日にNHKのドキュメンタリー番組『プロジェクトX』第64回放送分にて
「逆転 田舎工場 世界を制す」〜クオーツ・革命の腕時計〜というタイトルにて放映された中でも触れられています。


ヤマザキの誕生と発展、経営の多角化(山崎壯一時代)

 昭和30年5月に久夫の長男、山崎壯一(現ヤマザキ代表)が東京の第二精工舎および服部時計店修理部、目黒の眼鏡店での修業を終え帰郷します。そして二代にわたった「山崎屋時計店」を10年の眠りから覚まし、再び新たな第一歩を踏み出しました。開店当初の売り場面積は9坪、従業員3名でのスタートでした。

 まず、一日も早く一人前の店になりたいという事で社外での勉強会への参加と、社内での技術研修に力を入れ、昭和31年の商業経営研究会において今は亡き新保民八先生、岡田徹先生らの講義を受け、「真の商人道」を通して本物の商店経営を行うべく決意します。その後昭和32年日本チクタクチェーンに加盟することにより更に勉強する機会を得て、会社の歩みの速度を速めていきます。
創業当時のヤマザキ店内
 昭和42年松本市に宝石、時計の専門店を支店として出店、規模の拡大、専門店として質の向上にも着手してきました。製造業も昭和36年より手掛け、昭和39年には時計部品製造の山崎精器株式会社を設立、昭和40年に商号を現在の株式会社ミスズ工業に変更しました。

ヤマザキのさらなる発展と規模の拡大

 創業当時はカメラ、高度成長期には家電やレコード等の販売も手掛けていましたが、現在は時計・宝飾品・メガネ・補聴器の販売に集中。セイコー製品の総合的品揃えの時計、本物の輝きで個性を演出するジュエリーや財産保全のための金地金、快適な視生活をサポートする瞳に優しい安心・信頼のメガネ、コミュニケーションをスムーズにする補聴器など、多種多様化・高度化するお客様のニーズにお応えし、地域を代表する専門店として高い評価を得ています。

 ヤマザキグループとしては、製造業において新分野として医療機器分野に参入。潟Tンメディカル技術研究所が体内植込み型補助人工心臓「EVAHEART」を開発。補助人工心臓の耐久性の向上と小型化を実現し、在宅での移植待機や従来植込みが困難だった患者層への適応が可能になりました。平成24年8月には、内閣府主催「第10回産学官連携功労者表彰」において、潟Tンメディカル技術研究所代表取締役社長(当時)の山崎俊一および東京女子医大の山崎健二主任教授の2名が、「EVAHEART」の開発により「内閣総理大臣賞」を受賞しました。

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